シリーズ2:日本半導体産業復活のソリューションと警鐘 ⑨

筆者の2008年連載の半導体ウォッチ原稿と追加資料を加えて再度、検証しよう。

何故、隆盛を誇った電子立国の核であった日本半導体が凋落したのか?
現在の多くの日本の政治家は、日米半導体問題があったこそさえ知らない。
その真相は、この1枚の写真の中にある。
上記の写真(読者の皆さんがTV映像で自民党本部をよく見る会議室リバティー、壇上に立っているのが自民党参議議員 岸氏、右の2人が当時の経済産業省#3の審議官と半導体課長、左が座長としての筆者である。この会での議論が進めば、日本のハイテク業界を支援する議員立法を国会に提出することまで想定しての活動であった。)
日米半導体摩擦の時代、そのど真ん中に筆者は、米国企業側(FARICHILD~LSI Logic社)の立場にあった。
そして、同じバッシングに遭いながら、日本の自動車と電気・半導体企業の戦略の差は何だったのか?
トヨタの大規模リコール問題で、今回トヨタが明らかしたのは、ロビーリスト人数である。
筆者の記憶では、約54名ではなかったか?
これは米国担当だけである。
ロビー活動の成功と費用の掛け方で、グローバルや国内での産業成長が決定付けられる。
ロビングに成功する者だけが、世界制覇出来るのである。
インテル社やサムスン電子が、その代表であろう。

▮米国が日本に仕掛けた半導体戦略
DRAMの占有率、半導体全体の占有率でも日本半導体メーカーに抜かれた1980年代の米国半導体メーカーは、この状況に危機感を持った。
半導体だけでなく、カラーテレビなどの家電製品においても日本電機メーカーが世界で大躍進し、米国電機メーカーの凋落が顕著だったからである。

当時のレーガン大統領(共和党)は「産業競争力に関する大統領顧問委員会(President's Commission on Industrial Competitiveness)」を米国議会に設置した。
この委員長には、当時、米ヒューレット・パッカード社(HP)の社長だったジョン・ヤング氏が就任した。
数百人の委員が1年半に及ぶ緻密(ちみつ)な日本の調査研究を行い、1985年1月、ヤング委員長は「国際競争力と新たな現実(Global Competition ― The New Reality)」と題する報告書を提出した。これが、いわゆるヤング・レポートである。
このヤング・レポートでは、プロパテント政策および通商政策が重要課題の1つとして提言された。これらの政策により、日米半導体摩擦が激化した。
その一環として、米テキサス・インスツルメンツ(TI)社が、DRAMの基本特許侵害を理由に、日本半導体メーカー8社を提訴した。
その結果、日本半導体メーカーは敗訴し、和解金1億9000万米ドルの支払いを命じられた。
1987年当時の日本半導体メーカーは、年間1万件を超える特許を出願し続けていたにもかかわらず、TI社のDRAM特許に1社も対抗できなかった。
このことから、当時の日本半導体メーカーは「特許は量ではなく、質(基本特許)が重要である」という反省をした。
第1の事件が、これである(電機メーカーだけの特許問題でなく、日米の裁判制度の違いも背景にはある)。
第2の事件は、同時期に、日本の特許庁から「特許出願数を減らすように」と日本半導体メーカー各社に指導があった。
日本半導体メーカートップ5社から年間1万件を超える特許が出願されていたため、特許庁が処理をしきれずパンクしたのである。
これ以降、日本半導体メーカーは、1件の特許を大型化するなどして出願数を減らす方針を取ることになったが、このことも日本の技術開発の弱体化を招いた。
日米半導体摩擦、TI社からの提訴、特許庁の指導、これらの要因がすべて1980年代半ばに起こった。1987~1994年にかけて日本メーカーによる半導体関連の特許出願数が激減するのは、このためである。
日本電機メーカーの弱体化は、国産OSのTRON開発断念も起因している。
アメリカ合衆国通商代表部(Office of the United States Trade Representative:USTR)は、TRONを米国製OSに対する対抗勢力と見なし、その勢力を押さえ付けるために政治的に圧力を掛けたのである。
当時の日本政府は、TRONテクノロジーの先駆性に気付くことができず、不必要な妥協をしてしまったのである。
そのTRONは、携帯電話やデジタルカメラ、デジタル家電や自動車エンジンコントロールユニットなどの組み込みOSとして急成長し、非パソコン分野では業界標準の座を獲得した。
現在、TRONの後継となるT-Engineフォーラムは、国内外の主要メーカーや大学など434団体が参加する一大集団となっている。

※日本が米国に、経済とスーパー301条適用などでバッシングに遭った分野
・半導体
・TORNチップ(日本独自アーキテクチャのMPU開発断念)
・電子機器(東芝製不買運動)
・日本車(自動車)
・コンピュータ(FBIおとり捜査によるIBM事件)
・スーパーコンピュータ(クレイ社)

▮対日戦略の中心はセマテック
企業連合体であるセマテック(Semiconductor Manufacturing Technology:SEMATECH)は、米国半導体工業会(Semiconductor Industry Association:SIA)の子会社である(セマテックは、SIAや国防総省高等研究計画局(DARPA)など複数の機関の協力によって成り立っている)。
このセマテックは、半導体製造に関する技術の研究開発のためのコンソーシアムであり、その特異性は、第1に米国政府が特定産業の救済のために資金援助を行ったこと、第2に合わせて80%もの占有率になる半導体産業の主要米国半導体メーカーが結集したことである。
初代CEOは、米インテル社の設立者の1人であるロバート・ノイス氏であった。
米国の半導体戦略は、インテル社が主導的立場を取り、半導体技術ロードマップ(ITRS)に、日本の製造装置メーカーを積極的に参加させ、日本側にR&Dに対する投資をさせたことであった。
日本側の代償は、インテル社などからの製造装置の発注というビジネスモデルであった。
ちなみに、ITRSとは、1988年セマテックが発表した米国半導体の製品開発スケジュールのことである。
1987年、日本半導体メーカーの輸出攻勢に手を焼いた米国政府は高度な半導体技術の育成を目標として、1987年から毎年1億米ドルの補助金を10年間にわたってセマテックに投じ、1994年に日本半導体産業に追い付くことを目標とした。
そのITRSの仕組みが功を奏し、米国半導体産業は1994年に再度世界一に返り咲いたのである。

日本の凋落は、日米半導体協定が始まり
日本半導体メーカーの処方せんを解説する前にまず、日本半導体メーカーが凋落してしまった理由を明らかにする必要があるだろう。
凋落を招いた原因は、1つだけではない。
しかし、日本半導体産業界に最も大きなインパクトを与えたのは、1986年に締結された「日米半導体協定」だと断言できる。
この協定は、日本半導体メーカーの躍進に危機感を募らせた米国が、数々の政治的な圧力を日本に掛けた結果として結ばれた。
SIAは1985年6月に、日本半導体メーカーの半導体製品が、不当に安い価格で米国市場に輸入されているとし、通商法301条(スーパー301条)に基づきUSTRに提訴した。
提訴を受けて米通商代表部は1986年5月に「クロ」の仮裁定を下す。
これに慌てたのが通商産業省(現在の経済産業省)である。
貿易摩擦の激化を避けるべく、1986年7月に日米半導体協定に調印したのである。
(日本の大手半導体企業幹部と通産省幹部が協議して、苦肉の妥協策として決定されたものである)

『補足説明』
下のグラフは(このデータは日本市場)、日米半導体協定以降、日本市場開放によって、海外製(ほぼ米国製)半導体シェアが急速に上がり、日本半導体企業のシェアが急速に低下していることが分かる。
2010年は、6割近く海外勢にシェアが予測される。
これが日本半導体企業の凋落の最大の原因である。(海外も当然、日本半導体企業がシェア低下している)
これで、米国のプレシャーによる日本産業政策の変更がいかに日本を弱体化させたか事実として読者の皆さんも理解して頂けただろう。


筆者は日米半導体協定を、幕末の1854年に締結された「日米和親条約」に匹敵する不平等通商条約だと評価している。

当初、市場開放の目標値として掲げていたのは20%だった。
この数字を達成するために通商産業省は、日本電機メーカーを監視し、海外製半導体の購入額などを毎月報告させていた。日本電機メーカーの中には、海外製半導体の購入額を増やすために、実際には使わない半導体を購入し、廃棄していた事例もあった。
別の事例では、日本製半導体チップの入ったパッケージのマーキングを米国製にして、5%程度の利益を享受し、無理やり売り上げを立てていた事例も数多くあった。
こうした日本企業側の努力の結果、海外製半導体の占有率は1992年に目標値である20%に達した(筆者は米国半導体メーカーの社員として、日本半導体メーカーに戦略マーケティングの仕事としてプレッシャーを掛ける立場側から、冷静にこの状況を見ていた)。
本来であれば、その後も海外製半導体の占有率が20%程度にとどまるように監視・指導するのが筋だろう。
ところが通商産業省による監視は1995年に終わり、その後は市場原理に任せるかたちとなった。
そして2006年には、海外製半導体の占有率は43%に到達した。
海外製半導体の占有率を高める過程で、日本半導体メーカーの設計技術や製造技術(日本の最先端技術ノウハウは、製造装置に組み込まれて)が海外(米国・韓国・台湾)に流出してしまっていたのである。
セマテックから生み出された企業として、世界最大の半導体製造装置メーカーである米アプライド・マテリアルズ社がある。
同社は、2001年までの25年間に、売上高を年平均30%という高い成長率で伸ばし続けてきた。これは驚異的な数値である。
25年間で売上高が500倍以上に増えなければ、ここまでの成長率は達成できないのである。
成長の背景には、米国業界のロビー活動とそれに連動した国家戦略もあるが、日本企業との経営手法の大きな違いもある。
それは、経営の戦略性に対する姿勢の違いが最も大きいといえよう。
極論すると、日本式経営は戦略性に欠ける。
これに対し、米国式経営では戦略性を最も重視するのである。

戦略マーケティング手法こそ、唯一持続的成長を可能(サスティナビリティー)とするのである。

筆者は1997年12月にアナリストに転職してから、一貫して日本半導体産業界へメッセージを送ってきた。
2005年のEE TIMES JAPANのインタービューは、「日本半導体業界への最後の警鐘」というものであった。

※半導体ウォッチ(6)国内半導体業界に迫る衝撃の再編シナリオ
http://monoist.atmarkit.co.jp/feledev/articles/siliconeswatch/06/siliconeswatch06a.html








 

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